プロジェクトについて
あなたの最初のヤナーチェク?
まったく音楽を聞く耳を持たず、歌えばいつも失笑を買う、私のガールフレンドが、小学生の時に味わったある 事を話してくれた。生徒全員が義務づけられている音楽の時間に、彼女は自分の楽才のなさを軽蔑している女の先 生に呼び出された。それは次の言葉でどんな反応を期待できるかを、女教師は知っていたからだった「さあ、黒板の 所へきて、私たちに歌ってみて、ヤナーチェクさん!」。 この話を面白いと思う人もいるし、ひどいと言う人もいよう。これはいささか、大衆とヤナーチェクのような作曲 家たちだけでなく、一般的なクラシック音楽との関係を物語っている。度重なる大衆化のせいで、「四季」の一部がし ばしば編曲により、好意的に迎えられる。この際には室内オーケストラを電気楽器で代用したり、プラスチック・ヴァ イオリンを手にしたセクシーなソリストでとどめを刺される。こうしてヴィヴァルディの音楽が、アイスホッケー試合 の個々のシュートの間に流れさえする。 同じようにオルフ作曲の世俗的賛歌「カルミナ・ブラーナ」の主題も、好んで乱用されている。たとえば記念碑的な冒 頭の合唱「O Fortuna おお、運命の女神よ」が、ファッション・ショーの舞台へ、美人コンテスト・ファイナリストが登 場する際に鳴り響いたり、はては交通事故で何人かが死んでいる現実の悲劇を伝える、商業テレビ・ニュース番組ル ポの背景に、情緒的音楽が流れる・・・これは皮肉か、それとも無知か? 「黒い大地」の録音は別だ。 これを聴いたあなた方が、これがヤナーチェクの曲と知らなければ、「素敵な民謡だ」と言うでしょう。さらに注意深 く聴けば、民俗的主題の深みに気づき、ずっと興味が湧き、ときには挑発されるような気分にもなりましょう。その歌 詞を注意深く耳を傾けければ、多くの実際の人々の運命が見えてくる。それらの大きな力と歌謡性は、ヤナーチェク の編曲とあいまち、伝統を無視した現代的解釈の中のある部分には、強烈なものがあるので、この体験は忘れがた いものとなろう。 あなた方がこの体験をくり返し、友人たちとそれを分かち合いたくなる、と私は信じています。いくつかの作品は あなた方に、詩人K・J・エルベン(1811~70)の民話集「花束」を読み直してみよう、という気にさせましょう。でも 私がさらに望むのは、ヤナーチェクが収集・編曲した、歌やバラッドの美しさが、この天才の他の数々の作品を知るよ う、あなた方を目覚めさせることです。その先では、音楽のみが齎しうる美の認識と満足というご褒美が、あなた方を 待っています。 ミハル・ヤヴーレク(出版人) 2008年__